幕末明治

激動の幕末に希望の光を灯した「徳川家茂と皇女和宮」その美しくも儚い愛の物語とは[前編]

幕末に希望を与えた家茂と和宮

画像:徳川家茂像(徳川記念財団蔵)public domain

江戸幕府は、1603年の開府以来約260年間続き、その間に15人の徳川将軍が誕生した。

初代はもちろん徳川家康。

その後、2代秀忠・3代家光・4代家綱・5代綱吉・6代家宣・7代家継・8代吉宗・9代家重・10代家治・11代家斉・12代家慶・13代家定・14代家茂と続き、最後の将軍が15代慶喜である。

この中で、歴史の教科書に登場する主な将軍は、江戸幕府黎明期の家康・秀忠・家光。
そして、幕府最盛期から衰退期にあたる綱吉・吉宗。さらに大政奉還で幕府に終止符を打った慶喜だ。
彼らは、いずれも江戸時代において重要な事績を残してきた将軍とされる。

しかしこの他にも、魅力的な将軍は存在した。
その代表が、第14代家茂(いえもち)だろう。彼は15人の将軍の中で、近臣はもとより周囲の人々から最も愛された人物だった。

そして、その正妻である御台所が孝明天皇の異母妹にあたる和宮(かずのみや)だ。

彼女は、衰退著しい幕府と朝廷間における政争の道具として婚約者と引き離されたうえ、家茂と結婚させられた悲劇の皇女などともいわれる。

しかし、真実は違った。家茂は歴代将軍としてはただ一人側室を設けずに、この皇女を心から愛して大切に扱った。
和宮もまた家茂の愛に応え、僅か4年という短い結婚生活において夫を支え、その後の徳川家に大きな貢献を果たした。

今回は、幕末という混沌として時代に希望の光と灯した家茂と和宮の、美しくも儚い愛のストーリーを、前後編の2回に分けてお話ししよう。

前編は、この物語の主人公である徳川家茂と和宮親子内親王、それぞれの人となりを紹介する。

混乱状態の中での将軍就任

画像:徳川家茂像(川村清雄作)public domain

徳川家茂は、1846年に紀州藩主・徳川斉順(なりゆき)の次男として、江戸の和歌山藩邸(現東京都港区赤坂)で誕生した。

家茂が生まれる16日前に父・斉順が逝去したため、紀州藩は叔父の徳川斉彊(なりかつ)が継ぐことになる。
だが、その斉彊も2年後に没したため、家茂はわずか4歳で紀州藩主の座に就いた。

家茂は、9年2か月間にわたり江戸在住という形で、和歌山藩主の座にあった。
だが1858年に、もとより病弱であった第13代家定の病状が悪化し、将軍継嗣問題が勃発する。

薩摩藩主・島津斉彬、水戸藩主・徳川斉昭ら一橋派は、水戸家出身の一橋慶喜を推すが、それを押さえた南紀派により家茂が将軍継嗣に決定した。

そして、同年8月14日に家定が死去すると、家茂は13歳で14代将軍に就任したのである。

徳川将軍中で最も愛された家茂

徳川家茂が将軍位に着いた当時、幕府はアメリカを始め、欧米との外交をめぐる混乱期にあった。

幼少の頃から魚や鳥を飼育し、動物に愛情を注いでいたという家茂だが、将軍に就任すると弱年ながら文武両道に努め、良い将軍であろうと常に自分を律していたという。

そんな家茂の真摯な姿に接した近臣たちは感動し、それはいつか家茂へ対する敬愛の念に変わっていった。
それを物語る家茂と家臣をめぐるエピソードの中から、その一部を紹介しよう。

画像:榊原鍵吉 public domain

幕末から明治にかけて“最後の剣客”と称された幕臣・榊原鍵吉は、家茂の剣術指南だけでなく、将軍近侍として家茂の行くところ常に同行した人物だ。

家茂が没した後、彼は幕府からの出仕を断り官職を辞した。

おそらく健吉は、この年若い将軍の側に侍ることで、剣術指南役を越えた愛情を抱いていたのだろう。

同じようなことは、勝海舟にもいえた。

画像:勝海舟 public domain

家茂が幕府軍艦の順動丸に乗艦した時、海舟から海軍と軍艦についての説明を受けた。

すると家茂はすぐにその重要性を理解し、海舟が歎願する軍艦操練所設立の願いをその場で認可した。

また家茂が2度目の上洛において海路を選んだ時、荒天で海が荒れた。
しかし家茂は、動揺する近臣たちを尻目に全く動じず「海上のことは軍艦奉行の勝に任せよ」と断言したという。

この言葉に感激した海舟はますます家茂に心服し、生涯において忠誠心を誓った。

彼は家茂が没した時、その日記に「家茂様薨去、徳川家本日滅ぶ」とまで記している。

画像:戸川安清 public domain

また有名なものとして、家茂の書の指南役だった幕臣・戸川安清との逸話がある。

安清は当時70歳過ぎの老齢で、家茂に書を指南中、ふとした弾みで失禁してしまった。

それを察した家茂は、とっさに安清の頭に、墨を摺るための水を浴びせた。
安清は上半身だけでなく下半身までびしょ濡れになったが、家茂の機転で皆の前で恥をかくことを免れた。

本来、このような将軍の面前での粗相は、厳罰に値する。
しかし家茂は「あとは明日にしよう」と笑いながら席を立つことで、安清の不始末を不問に処した。
安清は、その細やかな配慮に感激して涙が止まらなかったという。

頭脳明晰で洞察力に優れ、物事の核心を瞬時に捉える政治的資質。
どんな場面でも泰然自若として、部下に絶大な信頼を置くリーダーとしての強み。
そして、誰に対しても温かい心と深い思いやりを持つ、生まれ持っての性格。

第14代将軍徳川家茂は、その天性の資質から誰からも愛され、接する人の心を虜にする人物だったのだ。

「公武合体」の責任を一身に背負った和宮

画像:和宮 public domain

和宮(かずのみや)は、1846年京都御所の東隣にある母方の実家・橋本邸にて、仁孝天皇の第8皇女として誕生した。

将来、夫となる徳川家茂と同い年だが、彼より14日前に生まれたことになる。

一般に用いられる和宮という名前は、誕生時に賜わった幼名で、本名は親子(ちかこ)といった。

画像:青年期の有栖川宮熾仁親王 public domain

1851年、数え6歳にて有栖川宮家の長男で17歳の熾仁親王(たるひとしんのう)と婚約。

幼い和宮は将来嫁ぐことになる有栖川宮家に通い、熾仁の父・幟仁親王から習字を習い、そして和歌を熾仁親王本人から学んだ。
こうした日々を過ごしながら、彼女は熾仁に嫁ぐ日を夢見ていたのだろう。

しかし和宮が14歳を迎え、有栖川宮家に輿入れする時期が近付いたと誰もが考えていた1860年6月、彼女の人生を根底から覆す出来事が起きたのである。

それが「和宮を将軍家茂の御台所に迎えたい」との幕府からの要請だった。

和宮降嫁の政治的背景は後編で詳しく紹介するが、ここではこの要請に対し、和宮がとった言動をお話ししよう。

このことが、和宮という深窓の姫君の人となりを良く表しているからだ。

画像:孝明天皇宸影(小山正太郎筆。1902年)public domain

8月7日、和宮は宮中へ上がり、家茂との縁組をきっぱりと辞退した。

孝明天皇も当初は「既に有栖川熾仁親王との婚約が成立していること」「皇妹である和宮の進退を自らの意思だけで決することはできない」として、幕府からの降嫁要請を一度は却下した。

しかし幕府はこれに屈せず、天皇に対してたびたび要請を繰り返した。
天皇はやむなく、前年に誕生したばかりの皇女・寿万宮を代案として示し、もし幕府がこれを承知しない場合には、自身は譲位し、和宮を林丘寺に入れて尼とする覚悟を示した。

しかしこれを聞いた和宮は、家茂との縁組を承諾したのである。

14歳の少女にとって、住み慣れた京都から遠く離れた江戸で、将軍とはいえ一度も見たことのない相手との結婚は、畏怖と不安そのものであったはずだ。

しかし和宮は、自らの降嫁が朝廷と幕府の融和(公武合体)に深く関わり、さらに孝明天皇の悲願である攘夷の実行を幕府に約束させる一助となることを理解していた。

この聡明さこそが、彼女に生まれながらにして与えられた才であり、やがて危機に瀕した徳川幕府を救う原動力となる。

そして1861年10月20日、和宮一行は桂宮邸を出立し中山道を江戸へと向かった。

総勢3万人に上ったというその行列の長さは50km以上。宮の御輿の警護には12藩、沿道の警備には29藩が動員されたという前代未聞の規模であった。

後編に続く・・・。

文/高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

高野晃彰

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編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」の代表。歴史・文化・旅行・鉄道・グルメ・ペットからスポーツ・ファッション・経済まで幅広い分野での執筆・撮影などを行う。また関西の歴史を深堀する「京都歴史文化研究会」「大阪歴史文化研究会」を主宰する。

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